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ベルツ

ベルツ博士は、明治初めお雇い医師として東京大学に赴任してきました。

ベルツ博士 

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 ベルツといいますと、大抵の人はベルツ水のことを思い出す程度だろうと思います。草津温泉を訪れた人はベルツ記念館のことを思い出すかも知れません。ある東京大学の教授は東大の構内にあるベルツ博士の胸像についてほとんどの学生は誰の胸像であるのかを知らない、と嘆いておられました。このようにベルツ博士を知る医師がだんだんと少なくなってきた現在、このドイツ人医師の功績を少し紹介してみたいと思います。

「君によりて日本医学の花ひらく」という水原秋桜子(俳人、東大医学部出身)の俳句があります。ベルツ博士の日本における業績を称えた俳句ですが博士の母校、ドイツチュービンゲン大学にその句碑があります。ベルツはドイツの近代医学を導入して日本の西洋医学の基礎を固めましたので、日本における「近代医学の父」ということができます。

 ベルツは、日本政府の招きで明治9年に訪日し、滞日は29年間にも及びました。その間教育、診療、研究に数々の業績を残しましたが、その業績は単に医学分野のみでなく政治、文化の幅広い分野に渡っています。在日中克明に日記を書き留めていましたが、その内容を昭和6年息子のトク・ベルツが「ERWIN BAELZ:Das Leben eines deutschen Arztesim erwachenden Japan Tagebucher,Briefe,Berichteher ausgegeben von TOKU BAELZ」としてドイツで刊行しました。日本語翻訳本には、「ベルツの日記」(浜辺正彦、菅沼竜太郎)、「碩学ベルツ博士」(山上甚三郎)があります。これは明治史の貴重な資料にもなっています。

ベルツは、東大医学部でははじめ生理学を教えましたが、内科の前任者ウエル二が退任後は内科を担当しました。精神医学の講義は日本で初めて行ったとされており、【暗示】の医学的効用や【狐憑き】に強い関心をしめしています。大学での講義はすべてドイツ語でされたようですが、ヤパー二シュドイチュというもので当時の学生はドイツ語をよく理解していたといいます。ベルツは、「ベルツの日記」に出てくるだけでも井上馨、大隈重信、陸奥宗光、大山巌および夫人、板垣退助、岩倉具視、山県有朋などの明治政府の高官やその関係者の診療にあたっています。時には往診もしています。後に皇室の侍医も務めました。また各国の外交団とも親交があり主治医として診療にもあたり活躍しました。

 明治政府は短期間の間に日本を近代国家とするために多くの外国人を招聘しました。この人らを「お雇い外国人」と呼んでいますがその中でもベルツはとくに親日家として知られています。日本婦人「荒井花」さんを妻に持ったこともかなり影響したと考えられます。一時ドイツに帰郷したベルツが花夫人やトク・ベルツに宛てたローマ字で書かれた手紙が残っています。また、日本各地に足を運んでおり日本や日本人の文化的背景をできるだけ深く知ろうという努力の跡が見られます。

 医学分野では、ベルツは当時は大変多かった寄生虫の研究に光を当てました。糞便から寄生虫卵を見つけるという、いまではごく当たり前の検査ですがベルツが本邦で初めて行った診断法です。これにより、十二指腸虫などの研究が進みました。肺ジストマを見つけたのもフイラリヤ、恙虫病の研究を進めたのもベルツでした。

 ベルツがドイツで研修、診療していた19世紀中頃では、熱型は疾病診断に大きな意味を持っていました。いまではどこの病院でも使っている体温表は、その頃ベルツの恩師ヴンデレヒが創案したものですが日本ではベルツが初めて使用したそうです。蒙古斑を認めたのもベルツが最初で蒙古人種特有とされていましたがいまでは白人にも認められることが確認されています(欧州白人での出現率約0.4%)。柑皮症を初めて記載したのもベルツでした。その他恙虫の研究、栄養学、日本学、人類学の研究においても多くの業績を残しています。

 温泉の効用を世界に初めて紹介したのもベルツです。ベルツはよく草津温泉を訪れ、自らも入浴し、酸性泉、高温温泉浴について詳しく研究をしています。そのことを顕彰するため「ベルツ記念碑」が建てられています。冬期に滞在していた際に、旅館の女中たちがヒビ、アカギレに苦しんでいるのを知り凍瘡治療薬を考案しました。これが「ベルツ水」で、誰もが簡単に作れるものだったため大変重宝されました。 日本に昔から伝えられている武術、柔道にも医学の光をあてました。医師や医学生のように頭脳を使うものは体を鍛えないといけないという考え方で運動することを盛んに推奨しました。自らが柔道着を着用しているところの写真も残っています。

 多忙な診療のかたわら、日本人をよく観察し、その上でするどく批判している一面も見られます。そのうちの一つですが、明治憲法が発布される直前の日記(明治22年2月9日)には以下のように記されています。「東京全市は11日に迫った憲法発布の準備に湧き返って居る。奉祝門、照明の準備行列の計画が到る処進められている。然し滑稽を事に誰一人として憲法の如何なるものかを知らないのである。」(「碩学ベルツ博士」より引用。斜体文字は筆者)

 日本の学問の将来について警告を与えたこともあります。それは明治34年11月3日に東京大学在職25年祝賀会の際に述べられた以下のような内容です(抜粋)。「諸君!諸君はまたここ三十年の間にこの精神の所有者を多数、その仲間に持たれたのであります。西洋各国は諸君に教師を送ったのでありますが、これらの教師は熱心にこの精神を日本に植えつけ、これを日本国民自身のものたらしめようとしたのであります。しかしかれらの使命はしばしば誤解されました。もともとかれらは科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、かれらは科学の果実を切り売りする人として取扱われたのでした。かれらは種をまき、その種から日本で科学の樹がひとりでに生えて大きくなれるようにしようとしたのであって、その樹たるや、正しく育てられた場合、絶えず新しい、しかもますます美しい実を結ぶものであるにもかかわらず、日本では今の科学の『成果』のみをかれらから受取ろうとしたのであります。この最新の成果をかれらから引継ぐだけで満足し、その成果をもたらした精神を学ぼうとしないのです。」(菅沼竜太郎訳「ベルツの日記」より引用)

 結果だけを求めるのではなくその元となるところを十分に学ぶべきとの発言は100年以上も前に述べられたことですが、私にとっても頭の痛い発言であります。「医学は芸術である」との言葉とともにベルツの精神の原点に帰ることが大切であると思っているところです。

益田孝男爵と ベルツ博士

 「性相・法隆寺学研究」 の中で 田村至道 著「雲外山荘記」
で述べられているごとく、
益田男爵は、ベルツ博士の草食に関することをかなり詳しく述べている。
この二人の接点はどこにあるのだろう?

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