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模擬原爆

原子爆弾

 昭和20年、8月 広島と長崎に原爆が落とされました。
このことを知らない日本人はほとんどいません。

 しかし、それに先立ち アメリカは新兵器(原爆)の投下実験を日本各地で繰り返していたことはあまり知られていません。

模擬原爆

 当時、私はまだ3歳位の頃なのでとても正確には覚えておりませんが、昭和20年の7月26日に南大阪に空襲がありました。

爆弾で飛び散った小石が我が家にも飛んできました。

 大阪市内南部の東住吉区田辺の「金剛荘」という料亭に爆撃がありその破片が四方八方へと飛んだそうです。この空襲により死傷者も出ました。

   模擬原爆 だったそうです。

 建物の破片のうちの何個かが私の家のベランダに落ちベランダの床を突き抜け下の部屋に達してしまいました。

 私の家族は幸い無事でしたが、家は振動で傾き戦後何年もの間、雨漏りに悩まされました。

パンプキン爆弾

模擬爆弾投下直後の航空写真
航空写真

画像の説明

             毎日新聞掲載

         
    被爆直後の写真(被爆地より東側、平野線方面を撮影、
    2009年7月23日毎日新聞掲載)
    山上の家は、この写真の左手前約200mにあります。



http://www.green.one.ne.jp/yamagami/kuusyuu.htm

Youtube動画






井上隆智先生、ロータリークラブ卓話

画像の説明


 今日7月26日は、今から60年前のまさにこの日、ポツダム宣言が発表された日に当たります。また、同じ日、わたしたちの東住吉に「原爆」と称する爆弾が投下されました。そういうことから、今日はこの話題を取り上げさせていただきます。

 東住吉に原爆投下とは、これは本当でもあり嘘でもあるわけですが、それはやはり爆弾ではあっても本物の原子爆弾(原爆)ではありませんでした。アメリカは原爆投下を想定して、形や目方だけ本物の原爆そっくりに作った爆弾にふつうの火薬を詰めて日本に50発ほど落としました。「模擬原爆」と呼ばれております。その一発が東住吉に投下されました。これが、当時55歳だった村田繁太郎さんという方を含め7人の命を奪いました。その事件を記した石碑が爆心地の近く、地下鉄谷町線田辺駅のそばに建っております。

 この話題でお話させていただこうと思い立ったいきさつを簡単に申し上げます。わたしには山上勝久君という同じ研究室の後輩になる友人がおります。彼は昭和20年当時3歳で東住吉に住んでおりました。その彼がつい先日、60年前の7月26日の模擬原爆の話を自分のホームページに紹介したから目を通してくださいとE-メールで連絡して参りました。これを見せてもらって、たまたまわたしの卓話当番がこの26日になっていることに気がつき、今度の卓話はこれしかないと考えたわけです。山上博士はまた、私どもの敬愛する故城野和三郎初代会長の最期を看取ってくれた主治医でもあります。これも何かの因縁ではないかと思わずにはいられません。

 さて、以下にこの模擬原爆事件が起こるに至った経過などをお話しさせて頂きます。そのなかで生意気にも戦争についてのわたしなりの考えをお話することもあるかと思いますが、そのときは、「まあ、勝手に言っているのだから」くらいに思ってお聴き流し下さい。
 
 さて、東住吉はじめ各地へ爆弾を積んで来て投下した飛行機はご存知の B-29 なのですが、そのスペックはお手元に配付した資料の爆心地の航空写真の上に載せております(全長30.18m、翼長43.10m、全高28.46m、自重33,8 トン、2,200馬力加給式空冷エンジン4基、最大速度550km/h、航続距離5230km、実用上昇限度10,250m、乗員11人)。現在のジャンボジェット機でも全長、横幅とも大体45メートルくらいですから、客を積まない機体としては B-29 はかなり大きい飛行機です。当時、それがまるで「蚊」程度の大きさにしか見えない高々度で編隊を組んで飛んで来るのをわたしは何度も見ました。銀色に光る機体、日光を反射して空が虹色に染まったこと、飛行機雲、そしてその爆音はいまでもありありと覚えております。登校途中にB-29がやって来ると、学校は休みになるので、国民学校(小学校)4年生のわたしは、通学路脇の麦畑の土手に寝転がって空を仰ぎ、友達と「きれいやなあ!」と言って眺めておりました。ちなみにわたしは当時、大阪都心からほぼ真東、50キロメートルほどの室生寺近辺に住んでいました。
 
 数字に妥協のない田村会員が聴いてくださっていますので、数字は正確にということで、資料に細かな値を載せております。ここで注目して頂きたいのは、 B-29の正規爆弾搭載量、4.5トンという数字です。皆さんが戦争の記録映画などで、爆撃機がバラバラッと何個も続けて爆弾を落とす場面をご覧になったことがあると思いますが、あれは、500ポンド(227 kg)通常爆弾が、220ポンド(100 kg)焼夷弾かなど比較的小さい爆弾を投下している様子だと思います。4.5トンの爆弾ですと、B-29ですらこの一発で満載となりますので、「バラバラッ」というわけにはいきません。この重い一発の爆弾を投下するとどうなるかといいますと、投下した瞬間、爆撃機はフワッと跳ね上がるので、パイロットは機体を制御するのに苦労するのだそうです。原爆はちょうど4トンありました。そこで、それを落とすのに失敗しないようにと、アメリカはパイロットの訓練を兼ね、日本の地形や天候とのかねあいなど、本物の投下時の参考にするデータを集めるために模擬原爆の投下を計画したようです。
 
 さて、今日26日はポツダム宣言発表の日なので、日本が戦争に負けた経過を簡単に振り返ってみましょう。
 先の大戦で日本軍が初めて負け戦を経験したのはミッドウェイ海戦でした。昭和17年の6月5日からの航空戦で、日本海軍なけなしの主力空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻が沈み、同時に多くのベテランパイロットも失って、わが機動部隊は壊滅しました。戦術的にみてもほぼ挽回不可能な痛手でしたが、それにもまして、戦略面からみた場合、戦争指導者が抱いていた幻想、すなわち緒戦に大勝ちして和平に持ち込めないかというかすかな甘い希望が夢と消えてしまいました。これが以後の戦争を結果的に無意味なものにしました。あとは、一発逆転勝利にわずかな望みをつないで展望のない「戦闘」を続けるだけになってしまいました。その「戦闘」にも勝てず、転落が現実のものとなり始めたのがガダルカナル攻防戦でした。ミッドウェイ島に上陸予定で艦隊に同行していた陸兵を、この負け戦を知ってしまったなどという理由で、本土へ帰すわけにはいかないと、急遽目標を変更して南の果て、ガダルカナル島へ送り込んだ結果、国力以上の戦線拡大につながってしまいました。ここに置かれた守備隊は消耗戦を強いられた上、散々の負け戦になりました。さらに、その応援を強いられた海軍と航空隊はへとへとになり、あとはもう戦線は防戦一方になるしかありませんでした。このように、ミッドウェイ海戦で負けたのが敗戦の始まりだったのですが、たとえそうでなくてもいずれは負ける戦争ではありました。日本とアメリカとでは石油、鉄、錫などで較べた国力の比率は開戦時で1対78だったと言われています。78倍も強い相手に喧嘩を仕掛けるなんぞ想像もつかないことです。このあたりの歴史を書いた書物を読んでいると、しばしば「まあ、ばかなことをやったものだ」というような書き方をしているものが多くありますが、そういう浅い見方をするのではなく、78倍もの相手に向かって、ましてワシントンを占領するあてなどまるでないまま、なぜ戦いを決意しなければならなかったかという視点でもっと掘り下げて教えてほしいと思います。東条首相以下当時の指導者が悪いというのは簡単ですが、そうではないと思います。日本の先人達はそんなばかばかりではなかったはずです。

 わたしは東条さんにいけない点があったとすれば、これは余談になるかも知れませんが、むしろ彼が昭和16年に下達した戦陣訓だと思います。その中の「生きて虜囚の辱めを受けず云々」というくだりです。別の言葉で言えば「死守せよ!捕虜になる前に自決せよ!」ということになりますが、これは前線の兵士にとって決定的に峻厳な言いつけとなりました。昭和30年より少し前、確か光文社だったと思いますが、太平洋戦争をアメリカ側か撮った大判の写真集が発刊されました。わたしは高校生のとき母校大宇陀高校の図書館でそれを見たのですが、なかに、壕の中で銃を抱いて死んでいる、つまり、小銃の銃口を口にくわえ、軍靴を脱ぎ足の親指で引き金を引いて自決している日本兵の写真がありました。今でもそれは脳裏に焼き付いています。ほかにも無残な写真がいっぱいあったのに、この一枚の写真を見たときだけ、わたしは涙が止まりませんでした。彼を殺したのは東条さんです。サイイパンでは南雲司令官が「戦陣訓に曰く、生きて虜囚の辱めを受けず」を引用し、玉砕という名の全滅を命じています。そういうふうに指導されてきたものですから、サイイパンや沖縄では非戦闘員にまで同じ悲劇が起こりました。この罪深さのゆえに東条さんは靖国神社に祀られる資格はありません。そういうわけですから、今日、わが国の首相が靖国神社へ公式参拝するのは何ら問題ないことだと思いますが、東条さんについてだけはそっと頭の中で参拝対象から外して欲しいものです。彼が意味のない「A級戦犯」だからなどといっているのではありません。戦地で亡くなってあそこに祀られている英霊の中には東条さんを恨んでいる人がいっぱいいると思うからです。
 
 さらに付け加えると、戦陣訓には許せない点がもうひとつあります。それは、日本兵に強要した価値観を敵兵に対してもおしつけてしまうことです。日本兵は、捕虜になった敵兵を「恥知らずの死に損ない」だと考え、ジュネーブ協定違反の捕虜虐待をする素地がうまれました。これは日本が文明国か否かを分けるほどの重大問題です。
 
 話を戻しましょう。昭和20年になると日本の敗色は濃厚となりました。2月にチャーチル、ルーズベルト、スターリンが集まったヤルタ会談で、ドイツが降伏したら、3ヶ月以内にソ連は対日参戦すること、その見返りに、樺太、千島をソ連に遣るよ、みたいな秘密協定が出来上がりました。これより前、昭和19年の7月には先日天皇陛下が慰霊に行かれたサイイパンが全滅失陥しております。これでサイイパンやその近辺の島々、原爆基地となったテニアン島などからB-29が東京まで無着陸で爆撃に来られる状態になりました。ちなみにサイイパンまでの直線距離2,350km、B-29 の航続距離5,230kmです。そのため当時大都市に住んでいた子供達は空襲を避けるため集団で疎開させられ、父母に別れ、空腹に耐える辛く苦しい日々を送ることになりました。その後は頻繁にわが国の都市は無差別爆撃を受けるようになりました。この日本無差別爆撃を立案実行したのは、ルメイという少将です。トルーマンとともに日本人なら決して忘れてはならない犯罪者の名前です。 
 
 さて、もうこのあたりでは日本が勝てる見込みなんぞ完全になくなっていました。昭和20年5月8日、ドイツが降伏しました。ここからは日本は文字通り世界を相手にたった一国で戦ったことになります。何故このときに日本も戦争をやめてくれなかったかと思います。これ以後の戦争は続けてもまったく無意味でした。
 
 話を先に進めまして、7月16日に原爆実験が成功しております。トリニティというニックネームの第一号原爆がニューメキシコの砂漠で爆発しました。この日はポツダム会談開始の前日だったのです。そこへは、スターリン、チャーチル、トルーマンが出席していましたが、トルーマンは原爆実験成功のニュースは懐にしまったまま何食わぬ顔で会議に出席しました。
 
 ナイーブな日本は以前からソ連を仲介者にして和平の道を探っていましたが、ポツダム会談の少し前からは、中立国スイス経由のルートをも使ってなんとか終戦に持ち込めないかと腐心していました。このとき相手側にいたのは、A.ダレスという人物などですが、その後には開戦時の駐日大使で、親日家でもあったグルーなどがかかわっていたと言われています。しかし、この和平工作も結局成功しませんでした。
 
 ともかくもその26日、60年前の今日、ポツダム宣言なるものが、アメリカ、イギリス、中華民国の名で発表されました。13項目から成っていますが、読み上げるだけの時間がありませんので要点だけを申し上げます。そのなかに、「2」とナンバーがふられた項目に、今にして思えば気になる文言があります。
 「・・・日本国ニ対シ、最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ。・・・(原文・・・poised to strike the final blows upon Japan. ・・・ 」
「最終的打撃(final blows)」という言葉に、かすかに「原爆の臭い」が感じられないでしょうか。それも恐ろしいことに複数形なのです。二発以上の原爆。あるいはむしろ原爆があることを味方にも知らせないための偽装の複数形だったのでしょうか。

 そのほかでは天皇制については、これを維持するとも何とも言っていません。そして、戦争を起こした権力者は許さないというような記述があります。そのほか、日本の国土は北海道、本州、四国、九州の四島とそれに付帯する小さな島々に限定する。日本国民をして奴隷にするつもりはなく、占領目的を達成したら撤収してやるからちゃんとやりなさいよ、みたいなことが記されています。読んでみて、そんな無理無体なことは言っていないという印象を受けます。

 このとき首相だったのは元海軍大将で侍従長も経験した鈴木貫太郎です。彼はなんとか戦争を終わらせようと努力していたのですが、このポツダム宣言を「黙殺する」と言明したのです。この黙殺という言葉はもしその通り言ったとしたらよくなかったと思います。いくつか説がありますが、実は彼はそうは言わなかったのではないかとも考えられるのです。それまでの彼の態度や諸般の事情を勘案すると、彼は、「この段階で、今日はコメントできない」というつもりだったと考えたほうがより実際に近かったと思われます。英語で言えば、たとえば  「I can't comment about it, today.」 程度が彼の本音だっただろうと思います。しかし、誰がそうやったかは知りませんが、あるいは鈴木首相本人が言ってしまったのかも知れませんが、「黙殺」という言葉が国家としての公式見解になってしまいました。英語に翻訳されて「ignore」と表現されました。 これをきつく解釈すると「reject」または    「refuse」となってしまいます。つまり、「拒絶します」と。少なくとも精神としては向こう側にはそう伝わったと思うのです。それが、アメリカに、これではどうしようもないから行き着くところまで行くしかないと決断させてしまいました。ポツダム宣言は即刻受諾すべきでした。そうすれば戦後の歴史は変わっていました。これが本当に最後のチャンスでした。しかし、何物にも代え難い貴重な日々が無為に過ぎ、ついに、8月3日に原爆使用のゴーサインが発せられてしまいました。
 
 そこで、大阪などに落とされた模擬原爆ですが、このシミュレーション用の模擬原爆投下は、16日に原爆実験が成功して、20日から開始され、8月14日まで続いています。何故14日まで続けたのでしょう。アメリカが原爆を3発しか作らなかったということと、これをよくよく考え合わせると辻褄が合いません。つまり、アメリカは実験用のもの、広島、長崎で手持ちの3発を全部使い切ったのに、長崎のあともなぜか4発目があるかのように模擬原爆の投下を14日まで続けたのでしょう。アメリカが4発造っていたという説は今日では否定的ですが、ひょっとすると4発目があったのかもしれません。4発目を運んでいたとひところ言われていた重巡洋艦インディアナポリスを日本の伊58号潜水艦が7月30日撃沈しているのですが、アメリカは、公式には同艦は7月26日、広島に使った原爆をテニアンに揚陸済みで帰りの空舟だった、と言っています。実は積んでいたのだが、口惜しいからアメリカはごまかしているのだろうと勘ぐればそのほうが14日まで模擬原爆の投下を続けたこととの説明はしやすくなります。あるいはこれとは別の一発があったのかも。
 
 さて、本物の原爆についてですが、広島に投下されたリトルボーイと呼ばれた原爆は長さが約3メートル、直径が70センチの筒型をしていました。ちなみに長崎に使ったファットマンはこれとは違って、名前の通りビヤ樽みたいな格好をして、スタイルからパンプキン爆弾などともいわれました。大阪にはこの長崎型が落とされています。
 
 原爆のメカニズムをちょっと申し上げておきます。広島型は、砲身のように頑丈な筒の両側にそれぞれソフトボール大のウラン235を詰め、その一方の後に置いた火薬を爆発させます。すると、もう一方の端に置かれたウランを的にして激しく衝突し、このとき核爆発が起こるというものです。これに対し、長崎型はプルトニウム239の周囲を火薬で取り囲んで爆発させ、そのとき発生する圧力で中のプルトニウムが核爆発を起こすという構造だそうです。
 
 また、話を戻して、そういうことで原爆投下は避けられなくなりましたが、改めて、原爆はひどい仕打ちだと思うわけです。私たち日本人は戦争に負けて、日本は不正義な戦をしたがゆえに敗れ、すべてアメリカがやったことには、たとえ部分的にではあっても、正義があるのだと錯覚してきました。しかし、冷静に考えれば、アメリカの戦いぶりも相当人道にはずれたものであったことは明かです。歴史に類を見ない残虐さであるといっても過言でないでしょう。私たち兵隊でない婦女子を含む一般市民に対し、空から爆弾をばらまくだけでも十分罪深いのに、原爆なんか落とせば、下にいる人間が誰彼なく「蒸発」してしまうことくらいは、ニューメキシコ以前でさえわかっていたはずです。大戦のとき使った通常の爆弾でも1トン爆弾といえば腰を抜かすほど大きくすごかったのです。原爆は通常火薬に換算すると15、000トン、長崎型に至っては21、000トン相当ありました。これを人間がいっぱいいる都市の上に落とすなど血の通った人間のやることではありません。これを決めたトルーマン(当時アメリカ大統領)は人を人とも思わない許すことの出来ない歴史的犯罪者です。
 
 わたしの父は職業軍人の陸軍軍医でした。わたしは軍人の倅でありますので、兵隊さんは好きでした。戦争に負けたあとでも、日本軍は強いんだと思っていました。今でも変わりません。そのことをふまえて、この戦争について若干の感想を言わせてください。
 
 まず、戦後のぼろぼろになった日本を助けてくれて、今は友邦になったアメリカとアメリカ軍が原爆攻撃などというあんなひどいことをやった、ということが日本国民としても、アメリカの友人としても誠に残念なことです。
 
 戦争に負けて日本の「戦犯」を裁くために、東京裁判が行われました。あれも無法なひどい仕打ちです。戦争を裁く「神の手」を誰がもっているというのですか。誰もそのようなものはもてません。戦犯が戦勝国に一人もいなくて、日本やドイツといった敗戦国にだけいっぱいいるなどというのはばかげています。ヒットラーとナチスがジェノサイドをやったのは特別に異様な行動であって、国家としてのドイツは別次元で扱われるべきでしょう。まして日本は「普通の戦争」をやったというだけです。あえてわが国のために惜しむならば、先ほど申した戦陣訓くらいのものです。戦場(いくさば)においてなお、人道的であった日清、日露の誇りがいたく傷ついてしまいました。
 
 結局、広島に原爆を落とされて大惨事になりました。そして8月8日にはソ連が参戦しました。日本にとっては青天の霹靂だったし、アメリカにとっては計算が狂ったこととなりました。アメリカはヤルタ会談でソ連に参戦を頼んでいましたが、このときはもうその必要はなくなっていました。いずれにせよ、ソ連の参戦はまさに火事場泥棒であって卑怯きわまりないことでした。あまつさえ無法にも多数の非戦闘員の婦女子を暴行、殺害し、兵士は捕虜にしてシベリアに拉致し過酷な条件で強制労働させました。原爆はもちろん第一級の戦争犯罪ですが、このソ連のやったことはとても文明人ではなしえない許し難い犯罪行為でした。子々孫々語り継いで忘れてはいけないことだと思います。また、そのときかすめ取った北方四島について、返すけれども二島だけにしろ、などと今なお不当なことを言っています。あの島々は日本の国土です、私たちは当然の権利として、泥棒から四島きっちり取り返すまでがんばるべきだと思います。何世紀かかっても。たとえ千年かかってもです。ロシアが真の文明国になれば目覚める日もあるでしょう。
 
 さて、原爆は8月9日長崎に第2弾が落とされました。ハーバード大学教授から日本大使になったE.ライシャワー、彼は明治の元勲松方公爵の孫娘ハルさんを奥さんにもつ日本のよき理解者でしたが、彼の一般向けの著書 「JAPAN」 のなかでこう書いています。「原爆は(2発とも)無用のことだった。かりに百歩譲って広島はやむを得なかったとしても長崎はまったく余計なことだった」と。このほかにも、原爆投下に反対した人にグルー元日本大使などがいます。マッカーサーは原爆投下のニュースを聞いて怒ったそうです。あまり知られていませんが、マッカーサーは日本が何故戦争を仕掛けたかについてもかなりよく理解してくれた人です。逆に原爆に積極的だったのはトルーマンのほか、アチソンなどだといわれています。
 
 昭和20年4月の段階で、アメリカは原爆実験成功以前に、原爆が出来たら日本のどこへ落とすかの候補地を決めていました。北東のほうから挙げてみますと、東京湾、川崎、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、呉、八幡、山口、下関、福岡、小倉、長崎、熊本佐世保となっております。東京は「湾」となっているのに、一定の配慮が感じられます。こののちアメリカは京都を、国家の良心の証として投下候補地から外しました。歴史的遺産を守るのが理由でした。逆に軍都広島は第一候補から外されることはなかったようです。その広島では原爆投下前しばらくの間空襲が途絶えました。あとで落とす原爆の効果をより確かめやすくするためだったといわれています。日本に無差別爆撃が激しかった頃でも、これらの現象をよくよく注意していれば、アメリカはそういう注意を払いながら戦争をしていることに日本の指導者はもっと深刻に気付くべきでした。相手に横綱相撲を取られてもうどうしようもないのだと。だから、せめて、3月26日、れっきとしたわが領土である沖縄県に上陸された時点で、あるいは日本栄光のシンボルであった戦艦大和を特攻に使って沈没させた4月7日の時点では戦いをあきらめて欲しかったとつくづく思います。本当はガダルカナル放棄の時点で敗戦は決まっていたのですが、さすがにこのときでは国家の威信にかけ降伏の決意は出来なかったでしょうが、以後、サイイパン全滅、ドイツ敗戦などいくらも戦を終わらせる節目があったのにと悔やまれます。
 
 戦争に突入したことは仕方がなかった面もあると理解しますが、負け戦になっても決断なくだらだらと日を送り、国民を多く殺す結果を招いた戦争指導者の罪はきわめて大きいと思います。
  
 やっと日本が降伏を決意してから丁度60年、還暦分だけの歳月が流れました。日本のその前の60年、つまり、昭和20年からみた60年前は1885年、明治18年でした。遙か歴史の彼方のように思いませんか。それを考えると60年は短くもあり長くもあります。明治18年は、明治維新がやっと成り、鹿鳴館が完成した直後です。第一回帝国議会がもたれたのはまだその5年も後の1890年のことなのです。それからの60年でわが国は近代日本として世界に伍する国に育ちました。そして何とも無残な敗戦でこの120年の前半が締めくくられました。以後それと同じだけの時間が経ちました。その間、今度はずっと日本人は負け犬根性が抜けないままでした。なにくそということで経済や学問、スポーツなどではともかくもがんばり国家は復興しましたが、肝腎の政治、外交、そして何よりも大切な教育では、負け戦を引きずって、いまだにおどおどとして腰が引けた状態を脱していません。先の戦争について、当時のわが国のリーダーたちが悪魔にとりつかれたかのように非道を重ねたという他国、および自国内の一部の意見を、わたしたち日本人はあたかも天の声であるかのように無批判に受け入れ、ひたすら謝罪し続けてきました。思慮なく、ジェスチャーだけの謝罪をしているからいつまでも負い目が抜けないのです。そんな愚かなことはずっと前に卒業しておくべきでした。繰り返しますが、誰も喜ばない戦争への道を選ぶしかなかったのは何故だったのかを国家の威信をかけて考え抜いてこそ未来につながる真の教訓が得られるというものです。そうして得た答えなら、たとえそれが日本再軍備の宣言であったとしても、世界に向かってアナウンスして何らはばかることはありますまい。教育界はこの60年間、「『国史』を学ばせることは民族としてのアイデンティティーを伝承することである」、という歴史教育の基本理念にふれることを意図的に避けてきました。その結果、日本人としての自覚を持たないたよりない次世代を育ててしまいました。日本の未来にとってまことに由々しい問題です。プロの教師があてならないのならば、私たちロータリアンは、どんな小さな機会を捉えてでも、次の世代を担うものたちに私たちの先人が歩んできた道を正しく説いて聞かせるべきではないかと痛切に思うのです。
 
 そういうことで今日、拙(つたな)い話をさせて頂きました。ご静聴を感謝します。




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