drbaelzyukari
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ベルツ博士のゆかりの地(主としてドイツ)を訪ねて
1)はじめに
私がベルツ博士のことを知ったのは医師になってから大分経ってからです。
私の父山上甚三郎が「ベルツの日記」の翻訳本を発行したという話も、成人したころ母や兄や親戚の人から聞いたことをうっすら覚えている程度です。
その翻訳本とは、昭和14年に発刊した「碩学ベルツ博士」という本です。
長らく私自身この本を読むことができませんでしたが、ある機会に読み始めてから偉大なベルツ博士のことを勉強し始めました。
2006年(平成18年)6月4日、日本医史学会関西支部の春季大会でベルツ博士に関して特別講演をする機会が与えられました。それから学会ではできるだけベルツ博士の業績などを紹介してきました。
2015(平成27)年7月31日にそれらをまとめた論文「ベルツの日記」再考―ベルツ博士を今に学ぶ―その(一)を「醫譚」(第101号、復刊第100号記念誌-2)(日本医史学会、関西支部)に掲載し始めました。連載の形となりその(六)で完結しました。(「醫譚」復刊107号(通巻第124号)(2018(平成30)年6月30日))
「ベルツの日記、再考」を書き進んでいくうちにベルツ博士が生まれたところや活躍したところを見ておかないとベルツ博士のことを十分知ることができないと考え、博士ゆかりの地を訪問することとしました。
長年果たせなかったのですが、今回好機を得て2017年4月26日からの連休を利用して訪独しました。
今回はベルツ博士の生誕したビーティヒハイムビッシンゲン市、帰独後居を構えたシュツットガルトとバーデンバーデンが中心に訪問しました。残念ながらベルツ博士が医学を修めたチュービンゲン、ライプチッヒは時間の関係で行けなかった至極残念です。
この度のドイツ訪問の際、私はベルツの日記の翻訳本、「碩学ベルツ博士」(山上甚三郎編訳)の本と父山上甚三郎の写真とを携行することとしました。
写真は父が果たせなかったドイツ留学をせめて写真だけでも実現してもらおうという気持ちからでありました。「碩学ベルツ博士」の本は、現在ベルツ研究の第一人者のスザンヌ・ゲルマンさんらに読んでもらうためでありました。
山上甚三郎は、大阪医大(現大阪大学医学部)のヘルテル外科で助手を務めていました。(日本医史学会関西支部「醫譚」復刻第85号、通巻102号5211-5214、2006)(日本医史学雑誌第53巻第1号88-89、2007)。フリッツ・ヘルテル氏が1930年任務終了でドイツに帰る時、父を助手として一緒にベルリンへ行かないかという提案があったそうです。ところが母親(私の祖母)がそんな遠い知らないところへ大事な息子を行かすわけにはいかないと言って猛反対したため父のベルリン行きはなくなった、というのを母から聞いたことがあります。
ビーティヒハイム・ビッシンゲン市のベルツの生家の前に立ってしばし考えました。
ベルツはこののどかな街から地球の果て当時まだ未開と思われていた日本へ、招聘されたからとはいえ、どうして行く気になったのか。そのことを色々と考えます。何か大きな流れがありベルツ博士は決心して東京へ旅立ったに違いないと考えます。
ベルツの母は、1876年ベルツが日本行きのことを相談した時「おまえのような大したことない者でも受け入れてくれるところがあるなら1,2年なら行ったら良い」と肯定的なことを言って背中を押したと伝えられています。
父、甚三郎の渡独に猛反対した祖母の考えとの間のあまりの隔たりについて色々と思いを巡らせました。
2)関西空港
ドイツ入りはフランクフルトからと決めました。
ルフトハンザ機が関西空港からだと直行便なので便利です。(現在は関空からの直行便はミュンヘン行に変更になりました)
2017年4月26日、関空10:00時発に搭乗。
今回座席の前後がすこしゆったり気味のルフトハンザのプレミアムエコノミーの席を取ることができました。ビジネスクラスではありませんが、きゅうくつでない座席です。通路から一番前の席で足が十分に伸ばせる席でした。このクラスでは座席の他、荷物の重量制限、持ち込み手荷物の数量の優遇もあります。
座席はネットで予約したのですが、予想もしないトラブルが発生ました。トラブルは予約の問題でなく支払いの問題でした。
クレジットカード支払いで決済しましたが、何と一部の費用が二重に請求されました。
このような二重払いはルフトハンザの会社では初めてといいましたが案外落とし穴ではないかと思います。十分なチェックが必要です。払い戻しには案外複雑な書類を書く必要がありました。
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